STAP細胞問題の基本的枠組みに対して破壊的インパクトがある小保方氏所有の証拠類
先日、ブログ記事で、
を書きながら、改めて感じましたが、小保方氏の『あの日』は、小保方氏とSTAP細胞とを否定し、あそこまで追い込んだ人々に対する抗議と、「寸止め」の警告になっているということです。
以前の記事でも書きましたが、
小保方氏は、記述の裏付けとなる「証拠類を公開する」と言えば、それは強烈なインパクトがあります。
小保方氏が「信頼していた人」に、若山研での研究実態を裏付けるメール等の証拠類を桂調査委へ提出したところ、助言という名目で都合の悪いところはすべて削除されたとありましたし、それ以前においても、自己点検委の報告書案に対する陳述の申し出を、「今からでは混乱するからあきらめてほしい」と、竹市センター長に却下されています。
小保方氏が信頼する幹部の人々であっても、若山研での研究実態を封印しなければならなかったということですから、小保方氏が持っている証拠類に対して、小保方氏らを追いん込んだ人々が、どれだけ戦々兢々としているかは想像できます。『あの日』に対して、何か反論的なことを言ったら最後、証拠類が公開されてしまう恐れがありますから、全くの沈黙状態というのは、それだけはなんとしても回避したいという思惑の表れでしょう。
冒頭記事でも書きましたが、理研本部は、STAP細胞研究の研究実態を何も知らないまま、石井調査委による不正認定を確定させてしまい、それに基づく懲戒処分の手続きの段になって、初めて、小保方氏が若山研に所属するポスドクだったという、基本的な事実に気が付いたわけです。
懲戒委のメンバーたちも、シンとなり、身を乗り出して小保方氏の説明を聞いたのは、石井調査委の不正調査の基本的枠組みが間違っていたという重大な事実に気が付き、内心では青ざめたということでしょう。懲戒手続きが留保され、その後、「懲戒の判断がつかなくなった」との理由で、理事が懲戒手続きを停止する旨告げたわけですが、理研本部・上層部の内心の焦りは相当なものだったと想像されます。
小保方氏が若山研に所属するポスドクだったということであれば、東大の加藤研の不正調査と同じ枠組みで行わなければならなかったはずです。自己点検委は、CDBのGDらで構成されていて、当局とはまた距離をおいた文字通り「自主点検」という形をとっていたこともあり、理研本部はその構図の描き方の問題に気が付きにくかったのだろうと思います。小保方氏が、若山研での研究実態を陳述しようとしても封殺されたという事実は、理研本部、上層部には伝わることはなかったことでしょう。
そして、それの自己点検委が描いた構図を基にして、改革委提言がなされ、若山氏は自浄をはかるヒーロー的存在にまでなってしまい、それが日本学術会議の提言でも追認されてしまいましたから、実態と乖離していても、理研本部としても、不正調査の基本的枠組みの間違いは棚上げしたまま、走り抜けなければならなかったということです。
しかしそれでも、理研上層部、CDB上層部としては、小保方氏参加による検証実験によって、STAP細胞の存在が検証されれば、不正調査の枠組みの間違いの問題はうやむやになると踏んでいたと思います。しかし、総括責任者の相澤氏さえ抗議するほどの実験上の制約がつけられたことにより、STAP細胞のキメラマウスによる実証はできなかったということで、その調査の枠組みの間違いを封印したまま、小保方氏一人の不正として決着させなければならなくなりました。
●笹井氏自死後の混乱を経て、小保方氏が出勤を再開して数日後に、川合理事から、桂調査委設置について説明があった際、小保方氏からの若山氏との情報量の違いと不公平な扱いについて訴えたの対して、川合理事は、
「理研上層部としても、若山氏が有利な情報しか渡してこなかったことに気が付いている。途中までは若山さんのことを信じていたみたいで、調査報告書などの情報が渡っていたようだった。でもこんなやり方は正義じゃないと感じている。(以下略)」(『あの日』p217~)
と、理事としては正直なところを話しています。3月末の石井調査委による捏造・改竄認定を言い渡す際の、事務的で突き放した様子とはかなり異なります。
こういう認識を、理研上層部は持っていたということですから、不正調査の基本的枠組みの誤りについては、彼らとしては、爆弾を抱えているようなもので、これを爆発させないように、(正義ではないとわかっていても)特定国立研究開発法人法案の提出の環境整備に向けて事態を収拾させなければならないという、綱渡りのハンドリングが求められたことでしょう。
特定国立研究開発法人法案の提出の環境整備は、文科省からの至上命令です。それは、野依理事長がもともと提唱した話で、理研としても悲願だったはずです。ですから、なおのこと、千々に乱れるところがあったと思います(そう、思いたいです)。
小保方氏が信頼していた人間であっても、桂調査委への証拠提出は阻止し、小保方氏が毎朝接する「事務方幹部」からは、ひたすら「我慢するんだ。耐えるんだ」と言い続けたのも、そういう「理研の特定~法人指定」という「大義」?のためだ・・・と自分に言い聞かせながらやっていた面もあると思います(特に前者)。
相澤氏が、「こんなのは科学ではない」と会見で述べ、取材を受けてもいいと言っていたにも拘わらず、その後沈黙を保ったのも、そういうためであることは間違いないと思います。
●本当は、当時、桂調査委への証拠提出が阻止されたときに、開き直って、「これは私に保障されているはずの弁明の機会である!」と主張して、証拠類を断固として提出し、公開を求めていたら、展開はかなり変わっていただろうとは思います。
しかしそれは、後付けの議論であり、当時は、次のような状況でしたから、そういう強気の対応は、難しかったのでしょう。
①小保方氏としては、自分のミスにより論文撤回に至ったことその他の自責の念
で、理研や関係者にも大きな迷惑をかけているという思いがあったであろうこと。
②笹井氏の自死の衝撃から立ち直れない状況であったであろうこと。
③信頼していた人から「証拠提出によって混乱する」と言われれば、それ以上は強
く言えなかったであろうこと。
④「事務方幹部」による繰り返しての「我慢するんだ」の言葉によって、「何も言う権
利はないんだ、責められるべき人間なんだ」という思いに取り憑かれていったこと
(『あの日』p216~217)
●こういった綱渡りの中で封印された証拠類ですから、それが公開されるということは、
① 公的な調査報告、提言(石井調査委、自己点検委報告、改革委提言、桂調査
委)の基本的枠組みの間違いが明らかになり、描いた構図が根底から崩れるこ
と。
② 川合理事が奇しくも吐露した「若山氏が有利な情報しか渡してこなかった」「こ
んなの正義じゃない」ということが、赤裸々なナマの情報(メール類)で裏付けら
れること。
ということにつながり、STAP細胞問題の再レビューの機運醸成を更に強めることになることでしょう。ナマの声が載っているメール類は、マスコミ的にも多大な関心を呼ぶことでしょう。
それだけ破壊的インパクトのあるナマの証拠類を握っているということを、『あの日』で分からせたということは、小保方氏の研究活動への復帰もそう遠くない段階で実現するとすれば、その邪魔をブロックする「お守り」的役割を果たすのかもしれない、という気もしないでもありません。
※ 川合理事は、「こんなの正義じゃない」と言い、相澤氏は、「こんなの科学じゃない」と言っていたにも拘らず、それが通ってしまったということは、よほどの力が働いていたということでしょう。