理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

「小保方さんのためには~~」という主張の含意

各種ブログのコメント欄を見ていると、所謂「擁護派」の皆さんでは、「小保方氏に迷惑がかかるのではないか」「そっとしておいてあげては」「そこまではやるべきではない」、あるいは批判派では、「小保方氏をそんなに擁護したいなら、小保方氏や弁護団に連絡とって支援しろ」「社会復帰を望むなら、ここでくすぶってばかりおらずにカンパでもしろ」「もう済んだことだからそっとしてあげて、社会復帰するのを見守ろう」といった指摘がしばしば目に入ります。
 しかし、小保方氏の気持ちの解釈は、十人いれば十通り可能ですから、その解釈をあれこれしていても仕方がありませんし、自分の解釈を他に強いるのもまた適当とは思われません。また、仮に小保方氏の気持ちがわかったとしても、それに縛られることもまた適当とは思われません。
 
上記の指摘で共通するのは、擁護、アンチを問わず、「当事者になれ(小保方氏と一体になれ)」と言っている構図になっているということです。しかし、我々は当事者ではありません。ブログ等で論じている皆さんは、皆「評論家」のようなものであって、「当事者」ではありません。「当事者にならなければ、論じてはいけない」「当事者の考え、気持ちはこうだろうから、そういう言動はしてはいけない」というのでは、言論空間は成り立ちません。
 小保方氏に考えの表明を迫るのは適当ではないと、Ooboeさんには申し上げましたが、Ooboeさんとそのパートナーさんが自らの考えに即して行動することは否定されるべきことではないですし、告発は真相究明につながるものとして支持するものです(ただ、告発するならば、受理されるように、法的に精緻なものにしましょう、と申し上げただけです)。


 小保方氏は、STAP細胞事件を究明する上での貴重な材料を『あの日』や日記、BPO申立てにおいて提供してくれています。それらは公開されているわけですから、名誉棄損行為は当事者の問題ですが、それ以外は、国民誰もが、そこに問題があると考えれば、自由に論じ、行動することが認められています。当事者にならなければそれが認められないということでは全くありません。
 
■ちなみに、私も分類すれば「擁護派」ですが、「告発すると小保方氏に迷惑がかかるのではないか。せっかく心身の調子が回復してきたのにまた調子を崩すのではないか」というご心配はわからないではないですが、それは杞憂だと思っています。
たしかに、小保方氏自らが訴訟の当事者になって訴えるというのは、弁護士がそれを実質的には遂行するとしても、心理的にはプレッシャーになるでしょう。しかし、第三者による告発であれば、警察による聴取、証人申請等があったとしても、体調等による配慮はなされますし、『あの日』で具体的材料の存在を示しつつ詳細に書かれており、書面での対応で済ますことも可能だと思われます。裏付けを取るべき先もかなり網羅されています。
 このまま推移すれば、科学界及び社会一般において、小保方氏の「汚名」は雪(すす)がれることはなく、いくら小保方氏の体調が以前よりは回復してきたとしても、根治されるものではないでしょう。少々きつい言い方をすれば、泣いてばかりいても問題は解決しないでしょう。
 
■むしろ、刑事、民事の訴訟によって、多くの証言、証拠がもたらされ、事件の真相が究明されることによって、小保方氏の名誉回復と社会復帰、心身の根治による回復を可能にすると思っています。そして、小保方氏のことは別にしても、世間を揺るがしたSTAP細胞事件の真相が解明されるということは、社会にとっても大きな意義があることです。
この事件の背後には、小保方氏が「仕組まれたストーリー」と述べるように、仕組んだ人間がいます。シナリオ企画、演出、振付を誰がしたのか、なぜしたのか、演者らはどう動いたのか、これらを明らかにすることは、相澤氏が述べる「科学界のドロドロ」の浄化にもなることでしょう。
そういう真相を社会が認識するようになってくれば、科学界の「空気に支配」でものが言えなかった研究者の中にもものを言う人々が出てくるでしょうし、STAP細胞事件の渦中にいた人々の証言も出てくるかもしれません。この人が話してくれれば・・・というキーパーソンが何人かいるということは、これまでの議論で明らかになっているかと思います。
 
■今回の記事で、なんでこんなことを書いたかというと、どうもこの数カ月の間に、「小保方氏のためには~~云々」という主張内容に、さまざまなバリエーションが出てきて、一見すると、小保方氏のためを思っているような言い方ではあるものの、それを以て、他者の言動を制約しよう、更にはこれ以上の展開を阻止しようという雰囲気が多分に見える事例が少なからず見受けられるようになっている感があるためです。そのバリエーションの内容は、コメント欄を見ている方々はおわかりかと思います。それが、擁護とアンチとで入り乱れて発せられているからやっかいです。一部では、擁護派間の同士討ちの様相も呈しています。
それぞれが自分なりに「小保方氏のためには~~」と考えることはいいと思いますが、だから、「~~するな」「~~~しろ」と、様々な言葉・表現のバリエーションで迫るのは、言論空間としては健全ではないと思っています。


誤解してほしくないのですが、他者の言動を批判するのはもちろんかまわないのです。何々すべき、そうすべきでないという主張はいいのですが、その際に、「小保方氏はこういう気持ちだろうから」という「自分の小保方さん像」を前面に出してそれを根拠に言うのは、いかがなものか、というのが本記事で言わんとすることです。