理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

【感想(補足)】小保方氏と瀬戸内寂聴氏の対談を読んで

 ちょっと、対談を読んでの感想の補足です。
 独り言のようなものですから、興味ない方は、飛ばしてください。

■ 「精神面の待避所」を持つことによる小保方氏の強さ

 小保方氏は強い、という印象を持っている方は少なくないと思います。
もちろん、欝病にまで追い込まれて痛々しい様子ですから、一連のことは耐えがたい業苦だったことは確かでしょうが、それでも、何とかあのすさまじいバッシングの嵐を乗り切ってここまで辿りつき、そして、自らの主張を一般向けに理解しやすいように短期間に一気呵成にまとめ上げたその生命力は、並大抵のものではありません。

 その生命力の源泉はどこにあるのか?を考えながら、対談を読んでいると、小さい頃、読書が好きで、特に伝記をたくさん読んだと語っていました。聖女ヴェロニカのことやマザーテレサのことに言及されていたのは、そういう読書体験によるものでしょう。
 また、可愛がってもらったようである二人の祖母も健在とありました。
 小保方氏の文学的センスというのは、そういったバックグランドがあるのだろうと思いますが、それは、「内面の豊かさ」を持っているだろう、ということでもあります。

 そこで思い出したのが、フランクルの『夜と霧』です。ナチス強制収容所に入れられて、死と日常的に隣り合わせの悲惨で苦しい毎日を過ごした経験を、事後に綴ったもので、広く知られた名著です。
 そこで書かれていたことの一つは、頑丈な身体の人間より、繊細な性質の人間がこの過酷な収容所生活をよりよく耐え得たということでした。

「人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥っていく原始性にも拘らず、たとえ稀ではあれ著しく内面化の傾向がったということが述べられなければならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば、彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(霜山徳爾訳。P121~)

 と書かれていて、愛する妻の姿や、日常生活のささやかな一コマ一コマや、あるいは有名な水彩画を思わせる幻想的な美しい夕焼け、信仰の世界等々、内面的な豊かさを持っている人間は、それに逃避できて、外界の苦痛に耐え得たということが、事例をもって語られています。

 小保方氏が味わった苦痛は、ナチス強制収容所でのそれとは異なるのかもしれませんが、それでも主観的には生きるか死ぬかの瀬戸際だったわけで、そういうときに、随所に垣間見られる文学的、詩的素養・世界や、祖母など肉親との記憶、そしてSTAP細胞という「あまりにも美しく、大きく」感じた「恋人」「愛(まな)子」など・・・「精神面の待避所」が存在したことが、バッシングの嵐からサバイバルできた大きな要因だったのではないだろうか・・・・と感じた次第です。


■ 科学界における陪審員的機能、異分野からの視点の必要性 

 STAP細胞問題という本来は科学の世界での論議の中に、瀬戸内寂聴氏という、まったく異質の文学世界の人が参入してきたというのは、歓迎すべきことだと思います。
 思うに、今の一般の人々も巻き込んでのSTAP細胞問題の論議は、裁判での陪審員の参加と同じような構図ではないだろうか・・・と感じています。
 なぜ陪審制度が復活したかというと、専門の裁判官だけの判決では、国民的感覚から逸脱し、時に機械的で非常識だったり、独りよがりだったりのものが目立つようになってきて、このままでは、司法が国民の信頼を維持できなくなる、という危機感があったからです。

 STAP細胞事件の一連の経過や科学界の議論をみると、上記の陪審制導入前の状況と同じような問題が生じているのではないだろうか・・・と感じられます。客観的には、科学界の信頼、信用にとって危機だと思いますが、科学界だけで議論している分には、もう終わった話であるかのようになってしまっています。
 しかし、一般人からみると、疑問が多々あるわけで、それを無視して思考停止になってしまっているかに見える科学界に対して、疑問を持つ人も少なからずいるために、ずっと場外でもフォローされ、議論が続いているのだと思っています。

 ですから、STAP細胞問題は、科学界だけのものにさせずに、専門家ではない陪審員と同じように、外部の一般人や異分野の識者の視点での指摘、評価も取り入れていくことが、議論を健全なものにするためには望ましいのではないかと感じています。
 そういう意味で、BPOでの検討は、法律家や異分野の専門家の委員たちによるものですから、科学界だけの議論では出てこない指摘もさまざまなされることになるでしょう。
 早稲田大の調査委の報告書が優れているのは、あらゆる論点、あらゆる疑問、相反する材料、指摘を洗い出して、それらについて個々に検討を加えて、合理的な推論をしていることです。この調査委の調査と結論とは、法律家と科学者とが共同で行った上での判断でした。しかし、それとは対照的に、残念ながら、桂調査委にはそういう多角的検討がありませんでした。

 素人が言うことを科学界の皆さんは、馬鹿にするでしょうが、しかし、その議論は、陪審員的センスで見られているということも、理解してもらいたいと思います。
法律的視点、文学的視点、社会心理学的視点等での指摘が出てくることが、冷静な議論に資するのではないかと思っています(精神分析の名をまとった罵詈雑言は願い下げですが・・・)。