理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

小保方氏にとっての強力な武器になり得る今回の手記―認識に影響を与える材料が多数


今日の昼休みに、やっと小保方氏の手記が購入できました。平積みがなくなっていたところに、書店の人が3冊補充したのをすぐ手にとって確保することができました。


 まだ、もちろん全部は読めていませんし、斜め読みで拾い読みした範囲ではありますが、貴重な検討材料となる(小保方氏から見た)事実関係、経過等が多々盛り込まれているように感じました。「えっ?そうだったのか?!」と驚いた箇所も少なからずありし、疑問が氷解したり、推測が裏付けられたり等の箇所もありました。理研に激震が走っているとの報道もありましたが、それもむベなるかなと思われる記述もありました。漠然と思い込んでいたことが、ひっくり返った点もあります。
 「手記」という語感から想像するものとは少々違うように感じます。


 善玉悪玉的思考がいかに危険かが、この手記で改めたよくわかったことは間違いないでしょう。それは科学的思考とは対極にある思考パターンです。
 
 そういった読めば読むほど、いろいろと考えさせる材料が多数提供しているようであるにも拘らず、発売から何時間も経たないうちから、Amazonのレビュー欄では、「責任転嫁、自己弁護、無反省、厚顔無恥、まずデータ出せ」等の定型的雑言が一つ星マークとともにずらずらと並ぶというのは、逆にこの手記のインパクトの大きさを物語っているように思います。
 
 内容としては、STAP細胞の研究、実験の過程や、米国、日本での研究室、大学院での諸々、一連の騒動・事件の発生と経過が、当事者の眼でかなり詳細に語られている印象です。しかも、文章が上手い(!)。専門的なことから、人間関係まで、(研究部分は素人にはもちろん難しいですが、それでも)読みやすく整理された言葉で綴られていて、すんなり頭に入ってくる印象です。こういうのは、ランダムに語らせて、編集者が再編して仕上げるというのがよくあるパターンですが、出版社が言うように、小保方氏自身が書き、出版社は誤字脱字のチェック程度だったというのが本当だとすると、かなりの文才です。
 心身ともに困憊し、研究者としての道を断たれたとの深い失望、孤独感の中で、よくこれだけの材料を提示してくれたものだと、感じ入ります。
 
 これは、小保方氏にとっての、強力な武器のひとつになることでしょう。身を守り潔白を明らかにするため攻勢防御的武器でもあり、起死回生の契機とするための武器でもありましょう。



 帰りの電車の中で、この手記を読みながら思いだしたのは、評論家として一世を風靡し今も根強く著作が読み継がれている今は亡き山本七平イザヤ・ベンダサンとしても知られます)が、『私の中の日本軍隊』という名著の中で取り上げた、無実の罪を着せられて刑死した2少尉に関する「最後の『言葉』」という一章です。この2人の少尉が置かれた立場と小保方氏が置かれた立場とで共通するものがあると感じました。
 ご存じの方もいるかと思いますが、昭和12年の南京攻略戦の際に、2人の少尉が、「百人斬り競争」に興じたという東京日日新聞(現・毎日新聞)の記事が「証拠」となって、戦後戦犯として捕えられ、処刑されてしまったということがありました。その「百人斬り競争」という記事は、現地の2人が、日日新聞のA記者から言われて冗談で放談したものを、記者もそれとわかっていながら脚色した戦意高揚記事にして、二人のどちらが先に百人を斬るか?を競っているという内容のものでした。二人が莞爾と笑って並んだ写真付きのものでした。裁判では、当然、二人の少尉は、あれは架空の話であり、新聞社の記者の証言を取ってもらえば分かると主張しました。カメラマンは、ほら話であることを証言してくれましたものの、A記者は、曖昧に言を左右するだけで、架空の話だとは遂に証言してくれませんでした。軍隊の常識からしてあり得ない話が数々含まれているにも拘らずです。そもそも上級将校のお付きである「副官」が、勝手に戦線に出られるわけがない。それがわかるとすぐばれるから記事では「●官」と伏せてある。戦線では、中国の兵隊はおろか農民だってろくに人影が見えないのに、次々と斬れるはずがない。日本刀で何十人も斬れるわけがない。すぐに歯こぼれする。
 このような冷静に考えれば、すぐにあり得ない虚構だとわかる記事であり、実際に与太話を脚色したものだとカメラマンは証言してくれたにも拘らず、東京日日新聞A記者が遂に証言をしなかったために、再三再四の上申書も却下され、絶望と失意の中、日中友好を祈って刑場の露と消えていきました。もちろん、中国側の政治的思惑も当然あったに相違ありません。
 
 しかし、その絶望と失意の中で、そのまま死んでいくのではなく、諦めずに言葉として、記録として残す努力をすることによって、後世、自分の無実を晴らしてくれる人間が出てくるかもしれない。だから、死ぬことはわかっていても、無駄だとは思わず、自分の考えを言葉で残しておけ。現に、自分(山本)が二人の言葉によって、無実を明らかにした。・・・というのが山本七平が語っていることです。
 以下、少々長いですが、引用します。大げさではなく、小保方氏と重なってみえてくるところがあります。両少尉は物理的抹殺、小保方氏は社会的抹殺というのが置かれた立場です。


山本七平『私の中の日本軍隊(下)』 最終章「最後の「言葉」」より最終部分抜粋
 
「向井・野田両氏のような運命に陥れば、人はもうどうすることも出来なくなるのが普通である。自分が無実で、虚報で処刑されることは、その本人たちがだれよりもよく知っている。そしてそれゆえに、余計にどうにもできなくなる。何を言っても、何をしても無駄だという気になってしまう。前にものべたが、処刑直前の前述のN大尉の状態が、それをよく示しており、現実と夢とが混合していく一種の錯乱状態は、向井少尉の遺書にも見られる。「十五、六日」という問題の日付にはこれも影響していよう。一切は奪われていく。法の保護も、身を守る武器も、そして最後には自分の精神さえ。
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
処刑は目前に迫っている。確かに、言葉で戦っても、もう無駄かも知れぬ。発言は封ぜられ、その声はだれにもとどかず、筆記の手段は奪われ、たとえ筆記しても、それはだれの目にもふれず消えてしまうかも知れない。
しかしそこで諦めてはならない。生き抜いた者はみなそこで踏みとどまったし、たとえ処刑されても、その行為は無駄ではない。「どうせ死ぬ」のだからすべての行為は無駄だというなら、すべての人はおそかれ早かれ「どうせ死ぬ」のであり、それなら人間の行為ははじめからすべて無駄なはずである。従ってその死が明日であろうと十年後であろうと三十年後であろうと、それは関係ないことである。
誤っていることがあるなら、自分の誤りを含めて、それを申し送って行くことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれもわからないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取りあげて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである――現に、ここにある。」
 
 小保方氏は、前書きで、
 
「これまで他の方に影響が及ぶことを恐れ、私からの発信を控えてきました。しかし、ここまで社会を大きく騒がせたこの出来事に対し、このまま口をつぐみ、世間が忘れて行くのを待つことは、さらなる卑怯な逃げであると思い、自分の持つ弱さや未熟さもさらけ出して、この本の中に真実を書こうと決めました。」
 
 と記しています。
 小保方氏は、処刑された向井、野田両少尉とは異なり、(社会的には抹殺されかかっていますが)幸いにして生きています。そして、高度な研究能力に加えて、これだけの手記、記録とを編むことができる頭脳と才能があります。これから、長い時間も与えられています。支持者、擁護者もいます。


 今回の手記で提示された多くの材料をもとにして、マスコミにおいても従来の善玉悪玉的見方に対する疑念も生じて見直しの動きも出始めて、真実探求の動きが広汎に広がっていくことを期待したいところです。
 ともかく、事実関係の材料が多ければ多いほど、検討を深めていくことができます。
 
 よく読んで、次回以降、気づきの点を逐次、記事にしていきたいと思います。

【補足】
 善玉悪玉的思考の危険性ということに加えて、JISAIさんご指摘のように、見た眼で判断する危険性ということも、本書で痛感する点ですね。
 『人は見た目が9割』という新書もありますが、テレビ朝日とかはよくわかっていて、登場させる解説委員や外部識者はほぼ100%、ロマンスグレー、シルバーグレーで、話し方も穏やかな人たちばかりです。
 凶悪犯や破廉恥犯が、つかまってみると、家庭的には良き父親であり、地域的には良き隣人で、とても評判がよかった・・・などという事例はごまんとあるのですから、見た眼で判断するのは危険です。
 小保方氏も見た眼がプラスにもなり、マイナスにもなりという両面があるかと思いますが、大事なことは、「事実」ですから、それらを積み重ねて、真実を明らかにし、判断の当否を固めていくというのが基本的プロセスです。

 今回の小保方氏の手記で、今度は、一気に「若山氏が悪玉だ」と極端に振れるのもよくなくて、ともかく、提示され、発掘される事実関係をつなぎ合わせていくことで判断していく必要があると感じます。