理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

4 理研調査委の不服申立却下決定の根本的間違い(4)―「捏造」認定にするための無理な定義づけ

 
 次に、却下決定の審査書における「捏造」認定についてです。

 不服申立て却下決定の審査書における認定理由の不合理さは、大別して2つあり、それは次の通りです。
第一は、「捏造」の定義について、その趣旨の理解が基本的に間違っていること。
第二は、悪意=故意の認定を、「未必の故意」というもので行っていること。本来、「過失」であるところを、「未必の故意」に強引にもってきていること。

 他の研究機関の研究不正の調査報告書を読みましたが、それらは、研究自体の再現性(=科学の蓄積への寄与)の追求の観点から慎重に認定作業を進めているのと比べて、そういう問題意識がない異質のものになっている印象が強くあります。
 
 率直な印象を言えば、定義に基づいて事案を検討するというのではなく、「捏造」認定をするために、逆に定義を設定したのではないかとも感じます。
 
以下、具体的に見ていきます。
 
1 「捏造」の定義の間違い
 
【偽造意図のない「科学的に不適切な行為」全般を「研究不正」に包含させる不合理】
 
 審査書では、次の通り定義しています。
 
「(1)「捏造の定義」について
規程第2 条第2 項は、「捏造」とは、「データや研究成果を作り上げ、これを記録または報告すること」としている。
したがって、捏造とされた実験データが他の条件の下で得られた真正なデータであったとしても、また、論文に記載されている実験と同じ条件下で得られたデータがあるとしても、捏造の範疇にあるか否かは、当該論文との関係において、当該データが論文に記載されている実験条件下で作成されたものであるか否かにより判断されるものである。
(2)悪意について
悪意の解釈については、上記第1、1、(2)に記述のとおりである。」
 
 これは、「科学研究」の意義と「研究不正」の趣旨のそもそも論の理解が誤っており、それがために、「データ、実験結果の偽装(=架空のでっち上げ)ではないが、科学的に適切ではない行為」と位置付けられるものまで、「研究不正」に含めて認定するという大きな誤りを犯してしまっています。
 
 名古屋大学京都大学の研究不正規程では、この「作り上げる」という文言を、明確に、「偽造」という言葉にして、その趣旨を明確にしています。
 
他にも、例の東北大学元総長の「研究不正」指摘に関し論文の舞台となった日本金属学会においても、ミスコンダクト対応規程において、「研究不正」と「科学的不適切行為」とを明確に峻別されています。
 
 
 ここでは、「故意で悪質なもの=研究不正」、「故意でなく悪質でないもの=不適切行為」という整理をしています。「悪質」かどうか、という点で判断が分かれるということは、「研究不正」として位置づけられる「捏造」には、害意=偽装目的を伴うということにほかなりません。
 
 そもそも、「作り上げる」という文言は、「架空のデータ、結果を作り上げる」という意味であり、それをより明確にしている「偽造する」という言葉は、明らかに偽装目的=害意を含んだものです。
まずこの定義の文言の点からして、調査委の定義設定は不当です。
 

【「再現性」を一切顧慮しない理不尽さ-文科省ガイドラインや規程の趣旨に反する】
 
●そして、そのことは、研究不正についての文科省ガイドラインに準拠する理研規程が、研究不正を指弾し、懲戒免職や諭旨退職という厳罰のみを原則としていることや、このガイドラインを定めた問題意識として書かれている文科省報告書の記載内容から読み取ることができます。
 
 上記報告書では、学術研究とは「人類共通の知的資産を構築・蓄積するもの」であるとし、 とした上で、「研究成果の発表」の意義を、「研究者間相互の吟味・批判によって成り立つチェックシステムへの参入」と捉え、「多くが論文発表という形で行われ、また、論文の書き方(データ・資料の開示、論理の展開、結論の提示等の仕方)に一定の作法が要求される」としています。
 そして、「不正行為とは、研究者倫理に背馳し、12において、その本質ないし本来の趣旨を歪め、研究者コミュニティの正常な科学的コミュニケーションを妨げる行為に他ならない。」
 
 知的資産の蓄積であるはずの研究成果であるにも拘らず、それをでっちあげたり(捏造)、虚偽のものに加工したり(改竄)、他人の成果を盗用したり(剽窃)、既に提示したものを再度新規のものとして提示したり(二重発表)することによって、科学界における相互チェック作業を無駄なものにする、すなわち、知的蓄積がそもそもなかったにも拘わらず、あったかのように見せかけ、科学コミュニティの無駄な検証作業を強いたり、名声を得るという知的詐欺行為を捉えて、研究不正と言うものだと理解されます。
 だからこそ、それが本当に知的構築・蓄積がなされたものなのかを検証するために、「再現性」というものが重視され、それを裏付けるための一連の生データ、実験ノート、試料等の「信頼性」のチェックがなされるという流れになっているわけです。「再現性」と「信頼性」という言葉は、研究不正についての様々な判断の場において常にセット出てきます(詳細は後述)。

知的構築・蓄積の証左である再現性があるのかどうかを検証するために、生データ、実験ノート等がチェックされ、それが十分でない場合には、再現実験を行わせることによって、その不十分さが架空、虚偽の要素によるものでないことを明らかにさせる、というのが、ガイドラインが想定している研究不正についての調査プロセスのはずです。
 そう捉えないと、その実験によって、知的資産の構築・蓄積行為が実際にあったにも拘わらず、その貢献は無視され、データの記載や画像の掲載が本来のものと違って誤っていたというだけで、研究詐欺=研究不正として断罪されて研究者としての生命を断たれ、懲戒免職、諭旨免職になってしまうという不合理な事態になってしまいます。
 「知的資産の構築・蓄積行為」という科学研究の本質に則して、
 
 誤りについて偽装目的・意図があった詐欺的なもの=「研究不正」
 誤りについて偽装目的・意図はないが、科学的作法に反するもの=「科学的に適切さを欠くもの」
 
 という峻別を慎重に行う必要があると思います。
 

学術研究の本質は、「知的資産の構築・蓄積」というところにある以上、研究不正の調査は、それが本当になされたのかどうかを慎重に見極めるということにこそ、最大の眼目が置かれるべきです。ところが、今回の理研調査委の場合、それを無視して、「論文等の信頼性を担保する」との名の下に、架空、虚偽の偽装の有無、偽装目的=害意の有無に拘わらず、データ等が同一実験条件の下に行われたものがどうかを外形的に判断して、捏造、改竄認定をするとしてしまっています。
 
「規程によれば、研究不正の範疇にあるものについて、悪意があるか否かを判断することになるところ、「悪意」とは、客観的、外形的に研究不正とされる捏造、改ざん又は盗用の類型に該当する事実に対する認識をいうものと解する。したがって、規程によれば、研究不正は、この認識のある態様のものについてこれを研究不正とすることとなる。
悪意を害意など、上記の認識を越えた加害目的に類する強い意図と解すると、そのような強い意図がある場合のみに規程の対象とすることになるが、その結果が、研究論文等の信頼性を担保するという規程制定の目的に反するとは明らかである。」
 
 調査委の審査書は、

① 理研自身が、それらの構築・蓄積があった可能性があるとして、再現実験をしている中であるにも拘わらず、
 (しかも、再現作業の困難さを笹井氏が指摘する第一段階を、理研の別途の2人  の研究者が成功していることを公式に認め、丹羽氏も実際に出来るのを3回は  自分で見たと言い、笹井氏が、「STAP現象を前提としなければ説明できない点  が少なくない」と言っている中で)
② 実際に実験が行われ、その実験によるデータ、結果が存在するにも拘らず、

 データ管理と実験ノートの記載が不十分というだけで、知的資産の構築・蓄積がなかった研究詐欺だといわんばかりに断罪するものであり、学術研究と研究不正の本質から逸脱した濫用行為だと思います。捏造、改竄というのは、研究詐欺として研究者生命にとって致命的なものになりますから、その認定に当たっては、謙抑的姿勢で、慎重にも慎重を重ねて調査を行うことが求められます。
 
実際、研究不正の調査事例が相次いだ東大の調査報告書や、懲戒処分について訴訟に発展した判決等をみると(詳しくは後述)、これらの峻別をした上で、生データや実験ノート等の記録の精査と並行して、再現実験を求めた上で、その結果をみてその研究実験が、架空、虚偽のものだった可能性を見極め、その上で、研究不正の有無を慎重に認定しています。「捏造」や「改竄」の認定には極めて慎重な書きぶりになっていることがわかります。「再現性・信頼性」という言葉がセットで用いられていることは、不正調査の考え方の現れだろうと思います。すなわち、「データ・実験結果は架空・虚偽のもので信頼性がなく、したがって再現性もない」という論理の運びなので、常識的ですし、調査結果も納得できるものになっています。
 しかし、理研の調査委の審査書では、「論文に即した実験は行われ、データ、実験結果はあり、論文の訂正はなされているものの、訂正画像が実験ノートで日付等の裏付けが十分に取れない。再現性については関知しない。」と言っているに等しいものであり、研究不正の本質であるデータ・実験結果の架空性・虚偽性の有無についても、再現性の有無についても何らの関心も持っていません。「間違った画像使用は、データ管理の杜撰さによってなされたもので、その杜撰な管理による画像掲載には、間違った画像が掲載されてもいいという未必の故意があった」と断じ、未必の故意による間違った画像の掲載行為は、研究成果を作り上げたもの=捏造であるという、本質論とはかけ離れた認定ぶりとなっています。
 
 今回の論文の場合、「脾臓+酸処理」という本来の実験条件の画像であるべきところ、「骨髄+物理的ストレス」という、ラボミーティング資料や学位論文でも使われた画像が掲載されていたという構図ですが、この場合の、本来の「捏造」とは、次のような事例です。

 (例1)酸処理などによって初期化は起こらないのに、ES細胞を使って
    初期化したと偽装した。
 (例2)酸処理で初期化させた実験は行っていないのに、物理的ストレ
    スによって初期化させた実験結果を使って、あたかも実験をした
    かのように偽装した。
 
 これらの事例こそが、知の構築・蓄積が何らないにも拘わらず、あったかのように偽装するという厳しく指弾すべき「捏造」(=「データ・結果を作り上げる」)という実質に当てはまるものです。実験が実際に行われて、得られた画像があるという知の構築・蓄積に値する成果があるにも拘らず、数十枚ある画像の一つに別の画像を間違って掲載してしまったからといって、これを「捏造」とするのは、飛躍が過ぎるというものです。
 
 
 「故意」認定のおかしさ
 
●以上のように、「研究不正」のそもそもの基本的視点から、今回の「捏造」認定には大きな問題があると思います。そして、「未必の故意」という認定の仕方にも大きな問題があります。同一条件による真正の実験とデータがあるにもかかわらず、それを正しく掲載しなかった不注意、過失を、「データ管理が極めて杜撰で、起こるべくして起こった」として、「そういう間違った掲載になっても構わないと思っていた」という論理立てで、「捏造」認定まで持っていっています。「知の構築・蓄積」への貢献という本質論には一顧だにしない、認定ありきの論理構築になっています。
 
【小保方氏には、間違った画像を使ってもいいという「結果の認容」はないから、「未必の故意」は成り立たない
 
まず、「故意」の認定ですが、理研理事の説明によれば、「未必の故意」ということだそうです。実際、認定理由として縷々書かれているのは、「未必の故意」論によるものと思います。
 ポイントを要約すると、
 
 ・データ管理は、複数実験によるものを十分整理せずに保管していた。
 ・複数実験の写真をアセンブルしたものを使って投稿した。
 ・投稿時に画像に文字が入っていたことを認識していたので、別の実験画像のものである可能性は認識していた。
 
という理由により、「データや結果を作り上げる」という不正状態を招来する認識はあったとの認定の流れになっています。「未必の故意」ということは、「間違ったデータが投稿されてしまっても構わない」と考えていた、ということかと思います。
 
しかし、これで故意認定するとはずいぶん強引ではないでしょうか。
未必の故意」を含む「故意」の認定においては、動機や目的等についての検討も重要な材料になるはずです。いろいろ専門的に難しいことが刑法の解説書に書いてあって難解なのですが、一般的には、「故意」が成立するためには、結果の「実現可能性の認識」と「実現の認容」とが必要だということのようです(「認容論」)。某サイトにわかりやすい例が書いてありました。
 
(事例)車を運転し歩行者の脇を通り抜けようとして人を轢いてしま
   った場合
 確定的故意    犯罪事実実現の確定的認識・認容あり
 未必の故意    犯罪事実実現の可能性の認識・認容あり 
(「轢くことがあってもかまわない」認容あり)
 認識ある過失              犯罪事実実現の可能性の認識あり・認容なし
  (「ちょっと危ないけど大丈夫」認容なし)
 認識なき過失              犯罪事実実現の認識・認容なし
 
今回の画像が間違っていた件についてみれば、小保方氏には、「間違った画像を使用することになってもいい」という「結果の認容」がないことは明らかです。動機も、得られる利益も全くなく、もし、実験条件の異なる画像(骨髄由来の細胞を物理的ストレスにより初期化)を使ってしまえば、論文の「脾臓由来の細胞が酸処理により初期化する」という論旨に反してしまいます。
だからこそ、外部からの指摘があるはるか前の時点(2月18日)で、画像の取り違えに気が付き、直ちに(2月19日)、本来の実験で得られた画像に差し替える訂正をネイチャー誌に対して行ったわけです。
 
【偽造の認識、認容はそもそも全くない】
 
 もともと、「捏造」は、データ、結果の「偽造」(でっち上げ)を意味しますから、そういうでっち上げの結果が生じる可能性認識や結果認容は全くないことは明らかですので、「故意」を認めようがありません。
そこで調査委は、次のような順番で、薄氷を踏む思いで、手の込んだ「理論武装を図っていったのでしょう。
 
まず、「研究論文等の信頼性を担保する」というのが規程の目的だとして、偽装意図=害意を排除し、「科学的に適正さを欠く」ものすべてを「研究不正」に包含させる。
次に、外形から同一実験条件のものかどうかを判断することとする。
次に、真正の実験と結果があるかどうかは問わないことにする(!)
次に、その同一実験下ではない画像掲載を招来したことに関し、「過失」論は排除する。
未必の故意」論を採用し、その上で「可能性の認識」だけで認定し、「結果認容」については一切無視する(或いは強引に材料を持ってくる)。
その「可能性の認識」認定のために、小保方氏のヒアリングの片言を捉えて、その援用材料とする。
 
【調査委の定義に従ったとしても、間違ったデータが掲載されてもいいとの「結果の認容」はない】
 
「可能性の認識」の援用材料としての「データ管理の杜撰さ」を如何に強力に印象付けるかという観点から、表現も筆致を一段と強めています。
 
不服申立て者は、「データ管理が十分に整理されていなかった」とするが、そのデータ管理はそのような程度のものではない。」
「本件画像データの取扱いに係る問題点は、ずさんな管理にとどまらない。」
「したがって、画像データの1枚1枚について、実験条件等について実験ノートや画像データ等を照合するなど、その由来を確認することなく、異なる実験条件下で得られた本件画像を使用したことは、こうしたおそれがあることを無視した行為であると判断せざるを得ない。 」
 
 しかし、これでは、次の通りの「過失」の定義そのものでしょう。
 
「法律用語としての過失とは、ある事実を認識・予見することができたにもかかわらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにもかかわらず、回避するための行為を怠ったことをいう。」(ウィキペディア
 
 そして、この後の「結果を認容」しているとの援用材料として使っている小保方氏の次の陳述は、むしろ、「可能性の認識」を否定するものではないでしょうか。

「ずっと何度もやっていた実験で、いつも同様の結果が出ていたので、脾臓細胞由来と骨髄細胞由来を同じように取り扱ってよいという気持ちがあったわけではないが、データが正しい現象だと安心しきってそのまま使ったと思う

○「結果の認容」の部分についても、全く根拠が薄弱です。薄弱というか、事実に反していると思います。
 
「(3)不服申立て者が、論文に記載された実験条件と異なる実験で得られたデータの使用を認容していたことについて
論文1に記載された実験条件が異なるデータを使用した点について、不服申立て者は、
・(「学位論文では機械的ストレスを使っていて、論文1では酸処理を使った、という違いについて、2 20日の時点で気がついていたか」との質問に対して
「厳密には、学位論文で作られたのはトリチュレーションで作られた幹細胞でNature のほうでは酸処理で作られた幹細胞である。私にとっては両方とも STAP 細胞でしたが、厳密には違うと思います」
・(骨髄細胞から得られたデータが脾臓細胞から作られたものであると記載されている点について)
「ずっと何度もやっていた実験で、いつも同様の結果が出ていたので、脾臓細胞由来と骨髄細胞由来を同じように取り扱ってよいという気持ちがあったわけではないが、データが正しい現象だと安心しきってそのまま使ったと思う」
旨、3 1923日に説明しており、論文に記載した条件と異なる条件の実験で得られたデータであったとしてもそのデータを使用することを認容している。」
 
 一番目の点については、220日の時点で気が付いていたに決まっているではないですか。気が付いていたからこそ、その前日の219日に、ネイチャー誌に、この実験で使ったマウス細胞の真正画像(再撮影のもの)を送っているわけです。小保方氏が述べたというこの発言のどこをとれば、「間違った画像の使用を認容していた」ということに意味することになるのか、さっぱりわかりません。
 こういう当たり前のことがどうしてわからないのか?と思って、よく読んでみると、219日にネイチャー誌に訂正画像を送付したことには、明確には触れられていません これは、41日の報告書でも触れていなくて不思議だったのですが、この審査書でも触れられていないようです。わずかに、「不服申立て者が学位論文の画像データを使ったことを自ら発見し報告したこと、画像 Bが存在し、画像 Cが訂正のために Nature 誌に提出されているなどの点についても、事実関係を調査した上で、悪意の有無を判断している。」とは書かれていて、画像Bの出所については検討は加えられていますが、それを送付した時期、意図については触れられていません外部からの指摘がない時点で自ら画像間違いに気が付き、自らネイチャー誌に訂正画像を送り差替えを依頼したことこそ、何よりの「(その画像が使われてもいいとの結果の)認容はしていなかった」ことの証左ではないでしょうか。

二番目に書いてある「いつも同様の結果が出ていたので、脾臓細胞由来と骨髄細胞由来を同じように取り扱ってよいという気持ちがあったわけではないが、データが正しい現象だと安心しきってそのまま使ったと思う」という発言にしても、「データが正しい現象だと安心しきってそのまま使った」ということからすれば、論文趣旨に沿った「正しい現象=脾臓細胞由来の酸処理」だと思い込んでいたとの陳述ではあっても、間違ったデータの使用の認容の要素などは、どこにもありません。
 
 
こうやって、検察は微罪を犯罪として立件していくのか・・・ということを眼前で見せられたような思いです。これでは、いったん検事が有罪に持ち込むと決意すれば、それから逃れることはできない・・という感を深くします。小保方氏側が、「どういってもわかってもらえない」「結論先にありきだ」と言っているのはその通りで、前にも書いたように、「学位論文でコピペを多数したりするような人間が、大発見などできるはずもなく、ネイチャー誌に投稿するのにこんなにデータ管理、実験ノート等が杜撰なのに、これがお咎めなしで通るはずがない」という感情的思い込みと世論の圧力?によるバイアスがあったことが、このような短期間での杜撰な調査報告書が生まれる要因となったことは容易に想像できます。
しかしそれにしても、無理に無理を重ねての認定になっているよう感じます。上記の①~⑥のそれぞれの段階について不合理さが大きいのですから、結論が大きく歪んでしまっていることは当然といえば当然です。
                                  
 この後、「実験条件」という言葉の混乱、東大の調査の進め方との比較 等について、述べたいと思います。