理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

3 理研調査委の不服申立却下決定の根本的間違い(3)―「改竄」の「故意」の解釈の誤り

 
 さて、次に、「改竄」認定における「悪意があった=故意によるものだった」の部分についての却下決定の審査書の問題点についてです。
 
 結論を一言で言えば、前回述べたように、「改竄」とは、実験結果等の意味する本質情報部分に変更・省略等の加工を加えたかどうか?というところで判断されるはずですから、小保方氏が、画像の組み合わせにより、その本質情報部分に変更等が加えられるという認識もなく、実際、変更はなかった以上、悪意=故意はなかった、ということです。
 審査書の認定は、すべて、本質情報部分の変更等になるかどうかを問わず、「改竄」の定義を拡張解釈していますから、それを前提とした議論は失当です。その定義を前提としても、結果予見・回避の注意義務違反により「過失」に当たるのみであって、「未必の故意」でさえないと思います。
 また、「改竄」とは、虚偽のものに加工するという偽装目的が含まれるはずですが、審査書では含まれないとする点で間違いです。
 
●以下、順次検討していきます。
 まず、弁護側の主張は、次の通りです(審査書から抜粋)。
 
「・データの誤った解釈へ誘導する危険性を認識しながらなされた行為ではない
不服申立て者の認識ないし意図としても結果を偽装するために行ったものではないから悪意がない」(不服申立書「第2、3」、同「第2、4」等)。
 
ここでは、要素が二つあって、「誤った解釈への誘導の危険性の認識」と「加害意図(結果の偽装)」です。
 このうち、前者の「誤った解釈への誘導の危険性の認識」については、調査委側、弁護側とも一致しているかと思います。ただし、その「誤った解釈」というのは、「実験結果等の意味する本質情報部分についての誤った解釈」ということであって、調査委側が前提とするような、「本質情報部分の変更等になるかどうかを問わない」ということではありません。
 後者の、加害(偽装)目的については、前回記事で述べたように、それを含めて解釈することが適当だと思います。
 
①「捏造」の定義がデータ・結果の「偽造」を意味しており、加害目的を含んでいることは明らかであり、それとの並びからして、「改竄」の定義の「加工」も同様の偽装目的を含めて解釈すべきであること。
②我が国法令における「真正でない」の用例は、すべて「虚偽」を意味しており、偽装目的を含めていること。
③「改竄」「捏造」等の研究不正に対する懲戒処分が、諭旨免職又は懲戒免職という極刑のみを原則としていることから、行為-処分の均衡原則からして、加害目的=悪質性を前提としていると解釈することが適当であること。
 
次に、調査委側の見解についてです。以下、審査書の抜粋です。
 
「(2)「悪意」について
規程によれば、研究不正の範疇にあるものについて、悪意があるか否かを判断することになるところ、「悪意」とは、客観的、外形的に研究不正とされる捏造、改ざん又は盗用の類型に該当する事実に対する認識をいうものと解する。したがって、規程によれば、研究不正は、この認識のある態様のものについてこれを研究不正とすることとなる。
 悪意を害意など、上記の認識を越えた加害目的に類する強い意図と解すると、そのような強い意図がある場合のみに規程の対象とすることになるが、その結果が、研究論文等の信頼性を担保するという規程制定の目的に反することは明らかである。とすれば、「悪意」とは、国語辞典などに掲載されている法律用語としての「知っていること」の意であり、故意と同義のものと解されることになる。この点について、不服申立て者においても、例えば、「画像を誤って取り違えた。異なる画像を故意に掲載したものではない。」として、「故意」という言葉を使用しているところである。
 
不服申立て者は、データの誤った解釈へ誘導する危険性を認識しながらなされた行為ではない、偽装するために行ったものではないなどとも主張する。悪意の有無を判断する上で、「偽装」など、加害目的に類する強い意図を必要とするものでないことは、上述したとおりであるが、加工の態様等からすれば、そのようなデータの誤った解釈へ誘導する危険性があることについて認識があったと言わざるを得ないところである。」
 
●この調査委の見解は、二つの点で間違っていると思います。


第一は、前述のように、「悪意」を「知っている」という意味で解釈するのはいいとしても、それが実験結果等の「本質情報部分の変更等になるかどうかを問わない」という前提に立っていること。
第二は、偽装目的は必要ないとしていること。
 
 まず、第一の点ですが、審査書では(p6~)、
 
①2枚のゲルの標準 DNA サイズマーカーの泳動に関する直線性について、目視で行なったことを小保方氏は認めていること。
Nature 誌に投稿した 2012 年論文の掲載拒否後の同年 7月、2012 年論文に細胞受容体再構成を示すための電気泳動写真などを加えた上、類似した内容の論文をScience 誌に投稿したところ、査読者から、レーン3の両側に線を加える等して、異なるゲルに由来するレーン3を区別しなければならないことを指摘されていたこと。
 
 の2点を根拠として、誤った解釈に導く可能性があったことについての認識はあった(=故意であった)旨述べています。
 しかし、目視で行なったことについては、前回記事で述べたように、DNAが短くなった」という実験結果における本質情報に変更を加えることになるという認識は皆無であり、見やすくするため、という目的に立ったものですから、本質情報についての「誤った解釈に導く可能性」についての認識はなかったと思われます。
 もうひとつの根拠である、サイエンス誌への投稿原稿に対する指摘ですが、これはまた別途整理したほうがいいと思いますが、「捏造」部分も含めて、大きな論点のひとつになっています。調査委の判断は、要約すると、
 
「本件2013年ネイチャー投稿論文は、2012年ネイチャー投稿論文却下後にサイエンス誌に投稿した論文とは論旨が同じから、それに対する(線を入れろとの)指摘を認識していながら、敢えて線を入れずに提出したということは、誤った認識に導く可能性を認識していたということだ」
 
 ということかと思います。「論旨が同じ」ということを、調査委側は判断の補強材料になっていますが、小保方氏側は、ネイチャー誌への最初の投稿から論旨を変えて再投稿の準備を始めていたので、「論旨は異なる。したがって、サイエンス誌査読者からの指摘は精査していない。だから認識はない」という主張かと思います。


 これに対して、調査委側は、「ほぼ同旨であり、論旨が異なるというなら、サイエンス投稿論文を提出せよ。提出しないということは、弁明の機会を放棄したということだ」と、いささか乱暴な主張をしています。調査委側がサイエンス投稿論文を入手しているのかどうかがわかりにくいのですが(査読者の指摘は入手しています)、入手しているのであれば、「論旨がほぼ同じ」と断定する根拠を詳しく書けばいいでしょう。入手していないのであれば、そのような断定はできないはずです。「2012年投稿論文も、サイエンス投稿論文も酸処理について焦点を当てている」としていますが、審査書に書かれた2~3行の記述だけでは、その判断は難しいでしょう。同趣旨だとしてそれを前提に主張するのであれば、その挙証責任は、調査委側にあるのではないでしょうか。
 
 しかし、そういうことは、あまり本筋とは関係ないように思います。仮に、サイエンス誌と同趣旨であり、その査読者からの指摘を読んでいたとしても、又は、査読者からの指摘を精査せずに放置していたとしても、その指摘を踏まえずに2013年にネイチャー誌に投稿したからといって、誤った認識に導く可能性を認識していたということにはならないと思います。
 それは、「過失」であって、せいぜい「重過失」というものではないでしょうか。
 
 「過失」について、ウィキペディアには次のように書いてあります。
「過失とは、ある事実を認識・予見することができたにもかかわらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにもかかわらず、回避するための行為を怠ったことと定義されるが、前者の主観的な予見可能性を重視するか、後者の客観的な結果回避義務違反を重視するかなど、過失の具体的な内容については、多様な解釈論が展開されている。」
 
 いろいろ難しい学説の差はあるようですが、予見可能性―結果予見義務違反―結果回避義務違反」というのを満たせば、過失犯ということになるということかと思います。その中で「重過失」というものがあって、結果の予見が極めて容易な場合や、著しい注意義務違反のための結果を予見・回避しなかった場合をいうとあります。
 
 調査委側の主張の即して言えば、線を引けという指摘があった以上、「(2枚の画像を1枚の画像と誤認されて、DNAサイズが本来の結果とは異なる誤認に導く)予見可能性があった」、しかしそれにも拘わらず、「その指摘を忘却して(又は無視して)投稿したことは、予見義務違反であり」、「実際に誤認させる結果が生じたから、結果回避義務違反である」ということでしょうか。指摘されていた以上は、「結果の予見が極めて容易な場合や、著しい注意義務違反のための結果を予見・回避しなかった場合」に当たるから、「重過失」だということなのかもしれません。
 しかしそれは、あくまで「過失」か「重過失」であって、「故意」にはなりません。調査委の審査書は、「捏造」認定の部分の記述もそうなのですが、どうも、管理が杜撰で注意義務もろくに守らないことによって、あたかも、「誤認されても構わない」という「未必の故意」として、「故意」を認定しているかのように思えます。それで、かろうじて引っ掛けている印象があります。
 
 身近な例えを考えてみたときに、(すぐにいい例が思いつきませんが)例えば、
A氏は、ある日、取引先のテーブルに納入荷物を置こうとした時に、このタイプのテーブルは、重さ20キロまでしか耐えられないので、荷物を置くときは十分注意してください、と注意されていた。しかし数ヵ月後、その注意内容を忘れて(又はよく聞いていなくて)、そのタイプのテーブルに30キロの物を置いて、テーブルを壊してしまった。」
 
 という事例を想定したとき、この器物損壊行為は、「故意」によるものと言えるでしょうか? どう考えても、「過失」でしょう。しかし、それを、「荷物の運搬に従事する者であれば、それがどのくらいの重さで、置く先がどのくらいの重量に耐えられるかわかっていて然るべきであって、一度注意されていたにもかかわらず、過重な貨物を置いたということは、テーブルが壊れるという結果を招く可能性を認識して、あえて置いたということだろう。」と言われたならば、ほとんど因縁をつけられているようなものです。大事な取引先ですから、「壊れてもいい」という潜在可能性を認識して敢えて行なったという「未必の故意」さえ、想定できないケースです。
 調査委の却下決定の審査書は、そういう無理を言っているように聞こえます。
 
 そして、加害(偽装)目的については、
「悪意の有無を判断する上で、「偽装」など、加害目的に類する強い意図を必要とするものでないことは、上述したとおりであるが、加工の態様等からすれば、そのようなデータの誤った解釈へ誘導する危険性があることについて認識があったと言わざるを得ないところである。」
 と、あっさり退けています。それは間違いであることは、既述の通りです。
  
●以上まとめると、次のようなことです。
 
(1)「改竄」とは、実験結果等の本質部分に、偽装目的で変更を加えるものである。ところが、調査委の審査書は、本来の実験結果のデータがあっても、その本質部分に関係なく変更が加えられることを以て「改竄」だとし、その可能性を認識していたことを以て「故意」だとしている。また、偽装目的の有無は関係ないとしているが、これらの定義は、明らかに間違っている。
 
(2)成熟したT細胞が存在する証しとしての「DNAが短くなっている」という本質部分の情報には何らの変更も加えられておらず、サイズ合わせが正確ではなかったというミスがあるとしても、本質部分には何らの影響も与えていない。その誤認をもたらす可能性についての認識も当然ない。「短くなっていないのに、短く見えるようにする」という偽装目的は当然なく、本来の2枚の画像からそれは明白である。
 
(3)サイエンス誌への投稿論文が、本件2013年ネイチャー誌投稿論文と論旨が同じかどうかは、調査委側が立証すべきであるし、仮に同旨だとして、調査委側の定義や考え方に立って、サイエンス誌からの指摘(複数画像を組み合わせる場合は線を引く必要あり)を認識すべきであったとしても、線を引かずに投稿した行為は、予見可能性、結果認識・回避の注意義務違反に当たる「過失」を意味するものであって、「故意」にはなりえない。「未必の故意」も成り立たない。
 
(4)しかし、あくまで「改竄」は(1)の通り、実験結果等の本質情報部分の変更を加えて虚偽のものにすることを意味するものであるから、(2)の通り、本質情報部分について誤った認識を招く可能性認識や偽装目的などはないし、現実に本質情報部分に変更はないので、故意、過失を問わず、「改竄」と認定される余地はない。
 
 
しかし、それにしても、ここで「改竄」云々と議論していることの、何と馬鹿馬鹿しく矮小なことか・・・とつくづく思います。
 STAP細胞研究論文のここでの論述趣旨は、「この成熟したT細胞が含まれているか否か(T細胞受容体再構成が生じた細胞が含まれているか否か)=DNAが短くなっているか」を説明するためのものであって、その点は、組み合わせ前の2枚の本来の画像によって明らかになっています。その画像についても結果についても、調査委側も何ら否定しているわけではなく、組み合わせ画像によっても、「DNAが短くなっている」という本質部分については違っていないことは、認めているわけです。
それを単に、2枚を組み合わせたときに、縮尺合わせが正確でなかったので、本来のサイズより少し違っているということを以て「改竄」と言っているに過ぎません。


本来の「改竄」というのは、この場合で言えば、成熟したT細胞が実は含まれていないにもかかわらず、DNAが短くなったかのように加工を加えて、研究成果自体を虚偽のものにする=偽装するというもののはずです。それこそが、本来の研究不正であり、懲戒免職、諭旨退職という極刑に相当する悪質行為なのです。
それなのに、実験結果の本質には何らの影響も与えず、それは調査委自身もわかっているにもかかわらず、延々と理屈を述べ立てて、何としても、改竄認定に追い込もうという姿には、これが天下の理研がやることか・・・?とつくづく情けない気持ちなってきます。もっと、大局に立った検討と認定がなされるべきではなかったのでしょうか? 文科省ガイドラインをよく読めば、偽装目的の悪質なものを研究不正として捉えていることは、容易に理解できるはずです。
後から述べますが、文科省ガイドラインの趣旨、構成をよく理解せずに、それこそそのコピペで研究不正規程を作っているがために、今回のような根本的誤認による判断をしてしまうのでしょう。他の学会や大学等では、ガイドラインをよく咀嚼し、今回の理研調査委が犯したような字面だけで判断するような過ちが起こらないように、文言なり定義をより明確なものしている事例もあります。
 
 科学者たちは、論文にしろ、実験ノートにしろ、科学者としても基本作法をわきまえない小保方氏が許せない、という気持ちが強いのでしょう。「こんないい加減で杜撰な者が、研究者として存在することが許せない」という感情があるために(加えて、そういういい加減な者が世界的成果を挙げて注目されるなど、なお許しがたいという感情もあることでしょう)、論文のミスにしても、「これだけの問題指摘がある論文が、研究不正として指弾されないはずがない!」という心理的バイアスがかかってしまっているのではないでしょうか。あるいは、社会での反応があまりに激烈だったために、これを何らのお咎めなしにするわけにはいかないという「空気」に支配された面も少なからずあるだろうと思います。
 それらが形となって現れたのが、4月1日の最終報告書なわけですが、判断する上での明確な定義の考え方も書かれておらず、認定に至るまでの論理を追えませんでした。それが、弁護士が不服申立書を提出して、一気に法律論になってきたために、却下決定の審査書では、弁護士の渡部委員長主導と思われる、訴訟の準備書面か判決文のようなものとなって出てきたので驚きました。しかし、それは、あくまで最終報告書の結論を維持するためのものであって、文科省ガイドラインの誤解はそのままで、法律論としても彼らの定義に立ったとしても、「過失」の話を「故意」にするという、無理の大きい理屈を展開してしまっています。
 初動対応の誤りに加えて、不服申立てに対して従来メンバーで拙速に結論を出してしまったことで、更に誤りを重ね、混迷を深めてしまっているのは残念な限りです。
 
 以降、順次、「捏造」認定部分についてコメントしていきたいと思います。