【番外】STAP細胞の小保方さんを敢えて擁護する(平成26年3月15日現在)
【2014年3月15日投稿】
<番外記事です>
新型万能細胞といわれる「STAP細胞」の存在を発表した小保方さんに対する風あたりが極めて厳しいものになっています。
以下の記事をみると、手のひら返しをする人たちもいろいろいるようですし、新聞や週刊誌の取り上げ方をみても、あれだけもてはやしていたのに、こういうことになってくると、急に、次元に関係なく貶めるようなことを書く向きも多く、どうも気分がいいものではありません。悪癖の一面が出てきているように感じます。
このSTAP細胞の問題の最大の焦点は、
STAP細胞は存在するのか否か?(=製作できるのか否か?)
の一点に尽きます。それはもしあれば、驚天動地の大発見であって、それ以外の研究倫理、論文無断引用、写真の流用?(取り違い?)問題は、それと比べれば、敢えて言えば、些細・・・矮小な問題だという気がします。
そう感じるのは、私が文系で、多くの作家と作品のことに接しているからだろうと思います。 小説や戯曲、音楽等々の作品と、作家、作曲家等とはほとんど関係ない独立した創作物です。いったん生み出されたら、その創作物だけが一人歩きしていき、作家がどういう人であろうと、その価値には関係がありません。
作家が人格者である必要はなく、過去の多くの実例からすれば、社会倫理を蹂躙している者は、数限りがありません。わが日本の著名な近代作家で、まともな人生を送った人のほうがむしろ少ないくらいでしょう。
姦通となると、これはもう枚挙に暇がありません。北原白秋、宇野浩二、太宰治、谷崎潤一郎、宇野千代、岡本かの子、島崎藤村、有島武郎・・・・等々、それはそれはもう、社会一般の相場からすれば、背徳の人生でしたし、姦通罪で投獄された例もあります。妻以外の女性との心中もご存知のとおりです。
通常であれば、世間から葬り去られるような話が、ごろごろあります。「作家」といわず、「文士」と呼ばれた時代は、品行方正なのは逆に馬鹿にされるくらいの雰囲気があったのでしょう。社会倫理、背徳の人生でなくとも、酒びたりというのはしばしばの例だったでしょう。
今も売れている時代小説の作家も、盗作騒動がありました。
・・・しかし・・・彼らの文芸作品は、文学史上に燦然と輝いていますし、今に至るも多くの人々に親しまれています。
●文士と科学者を一緒にするな! という人も多いでしょう。
しかし! もし、本当にSTAP細胞の再現実験が成功し、その存在が証明されたら文士と作品との関係と同じような構図が出現することになります。
「書いた文士に社会倫理や世間常識が著しく欠けていたが、その作品は燦然と輝いている」
というのが、
「発見した研究者に研究倫理や科学界の常識が著しく欠けていたが、その研究成果は燦然と輝いている」
ということになります。おそらく、小保方さんは早稲田大学から博士号を取り消されることでしょう。博士論文に「盗用」があったということであれば、そういうことになるのでしょう。
ただ、「盗用」なるものが、「幹細胞とは?」という解説部分であるということのようであり、それであれば、研究成果の本質とはほとんど関係のないことです。
いずれにしても、小保方さんの博士号取り消しの可能性大で、一介の学士、修士になるのかもしれません。
しかし、その一方で、STAP細胞が存在することが再現実験によって証明されたら、どうなるのか・・・??
一介の30歳の学士によって驚天動地の発見がなされたこと自体がまた、科学史上で、前代未聞、驚天動地の事態になります。
●マスコミの報じ方はおかしいというか、肝心の点が抜けていると思います。
本件の最大の本質は、STAP細胞があるのかどうか、という点である以上、ジャーナリズムとして追及し、報じるべきは、
○再現実験がなぜ成功しないのか?
・成功したとされる手順がある一方で、公表された手順で再現されないのは、
どこの部分が障害なのか?
・(+αの職人芸的要素が必要な部分があると言われるが)それはどの部
分で、公表された手順ではどの部分なのか? どうしてそれが重要なのか?
ということだと思います。しかし、そういうことはさっぱり新聞では出てきません。
今日の新聞では、共同著者で論文取り下げに同意していないハーバード大のバカンティ教授は、
「 「他の研究者が私たちの結果を再現できるようにする」として、自らのウェブサイトでSTAP細胞の詳細な作製手順を公表することを表明、「事実はおのずと明らかになる」と訴えた。」( 2014年3月14日 23:51 共同)
と言っているそうですが、理研側が公表した製作手順と、バカンティ教授の公表する製作手順とは、どういう違いがあるのか、よくわかりません。バカンティ教授は、「丁寧に製作手順を踏めば、再現は容易だ」と語っているだけに、どこの部分がネックとなっているのかがわかりません。
あるいは、理研が疑惑発覚後に、研究チームで再現実験に成功したというのは、一部だったと説明していますが、どこの部分までなのかもよくわかりません。
発表前に、再現実験は行われたのだろうと思いますが、それはどのように、どこの場所で行われたのか?も知りたいものです。
○また、共同著者で、撤回を最初に呼びかけた山梨大の若山教授が、
「提供を受けたSTAP幹細胞について、第3者の研究機関に調査を依頼することを明らかにした。」
と報じられていますが、それは具体的に、誰にどういう形で提供されたものだったのか?、第三者機関への依頼は、どこで行い、どのくらいの期間で完了するのか?そもそも第三者機関でSTAP肝細胞か否かということはわかるのか? なぜわかるのか? それが違っていたとすればどういう可能性が考えられるのか?といった点も、重要なポイントで知りたいところです。
そういった、STAP細胞の存在の有無という最も本質に関わるような部分についての科学報道が十分になされず、論文盗用だ、写真流用だ、写真を加工している、博士論文まで盗用だ、といったところを中心にスキャンダル的に報じ、あげくに、早々と科学界の恥、みたいなことを言われると、報道すべきことをしてからにしてほしい、と言いたくなります。
研究倫理の話に傾き勝ちで、それはそれで、世界の科学の作法の常識を逸脱したことである以上、謝るのは仕方がないとしても
というのでは駄目で、バカンティ教授を含む研究チームに対して、より詳細な製作手順を公表させ、内外の数箇所の研究機関に再現実験を依頼する、との方針を言明すべきでしょう。
このまま論文撤回になってしまっては、再現実験を中止する研究者が続出するでしょうし、実際そういう動きがあるとのことですので、きちんと再現実験の可否は最後まで見極めなければなりません。そのためには、具体的に指定して依頼をしなければならないと思います。
研究倫理やデータの扱い方の常識を改めて教育し直すということももちろん大事ですが、驚天動地の世界的大発見かどうか、ということの検証が最優先になされるべきであり、間違っても、今の時点で小保方さんに、蟄居閉門を命ずるような愚挙はしないように願いたいものです。
この点は、日本分子生物学会の理事長氏も同様で、、「理研の中間報告は画像流用などの肝心な点の謎が解明されておらず残念」「小保方氏が流用疑惑をどう考えているのかもわからない」「引用ルールを小学校段階から教えこむ必要があるのではないか」として読売新聞の取材に対して、研究倫理の観点からの不満表明に終始しています。3月11日の声明も同趣旨です。
わずかに数文字、「成果の再現性は別問題として」と留保はつけていますが、研究倫理の問題に終始していることには変わりありません。
研究倫理、科学の作法を大きく逸脱した以上は、こう言う表明は致し方ないにしても、肝心の点は、「STAP細胞の再現性」なのですから、せめて、
「研究倫理上の問題は厳正な対処と再発防止、教育の徹底に務めるとして、STAP細胞の再現性の点は、それとは切り離して検証がなされるべきである。STAP細胞については、仮にその再現実験が成功し、その実在が証明されるのであれば、分子生物学の歴史上画期的な成果となる。このため、その再現性の検証のため、詳細な製作手順の公表と、第三者機関での早急な再現実験の実施を求める。当学会としても、その点については全面的に協力する用意がある。」
くらいの声明を出したらどうなのでしょうか。
「比較的軽微な間違いや外部からの圧力によって無視するにはあまりにも重要な論文だ」
と述べ、同ハーバード大の小島宏司医師も、
「現段階では、指摘されている疑問や懸念が、私たちの発見に影響するとは思えない(ので)論文は撤回されるべきではない」
と述べていることは、ひたすら根幹である再現性という一点のみを見つめているという点で、筋が通っています(いずれも読売新聞の3月15日付け)。
日本の学界の反応には、「妬み嫉み」に類した感情がまったくないと言い切れるか?という気もしないでもありません。もし自分がその学界に身を置いていると想像すると、そういう感情が芽生えるのはおそらく否定しがたく、むしろ、「あれは捏造であってほしい」「再現実験は失敗してほしい」と願うかもしれません。科学者だって人間ですから、そういう感情を抱いても不思議ではありません。「ポッと出の若造」が、いきなりノーベル賞ものの研究成果を出したとなれば、心穏やかではないでしょう。
そこを、研究倫理の問題であれば、いくらでも非難できますし、相手も否定できませんから、論文を撤回させ、研究成果を無きものにするのは容易です。
しかし、本当に研究成果の可否を冷静にみるのであれば、再現実験の実施が早急に促進されるよう要請べきですし、論文撤回は詳細な手順公表後の再現実験の成否を見てからでも遅くはないのではないでしょうか。
● こういう小保方さんに擁護的な(ひねくれた?)ことを言うのは、2012年のiPS細胞の臨床応用捏造騒ぎを起こしたような単独犯のマスコミ先行発表の「学者」であればともかく、騙そうといたのであれば、すぐばれるような嘘をつくとは考えにくいということがあります。論文発表~他者による再現というプロセスを経て、初めてその正しさが立証されるわけですから、それもまったくできないような嘘がばれれば、即、学者生命が断たれますので、そんなことを、理研、ハーバードといった錚々たる研究機関の複数の学者がやるだろうか?と感じます。やる動機も考えられません。別にブランドに幻惑されているわけではありませんが、そう思うのが普通でしょう。
たまたまできたものをそのまま右から左に出すはずもなく、Natue誌に投稿する以上は、再現実験は繰り返し行ったと思うのですが、そうではなかったのでしょうか?
そういう常識的な印象が今の擁護の気持ちのベースにあります。
● それに、科学界といっても、科学の歴史は、後から振り返れば相当の不見識さの連続で、今でこそ常識となっていることが、罵倒され抹殺されるという繰り返しでした。
20世紀初頭に大陸移動説を唱えたウェゲナーは、ぼろくそ批判され、それが証明され復活したのは1950年代、それの発展系で今でこそ当たり前のように言われるプレートテクトニクス理論が認められたのは、実に1980年代になってからでした。
今回のSTAP細胞の論文の掲載を拒否していたNature誌の担当者が言っていたという「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」という言葉は、新学説が必ず遭遇し、その前に立ちはだかることなった言葉だったはずです。
「再現ができない」という話の連想で、イデオロギー的空論のような扱われ方をしたルイセンコ学説(「獲得した形質は遺伝する」)の例が思い当たります。最近出た『臓器の時間』(伊藤裕著、祥伝社新書)という本で読んだのですが、1934年に、ソ連の農学者のルイセンコが、低温処理することによって、小麦の春まきと秋まきとが相互に変わることを発表しました。しかし、それがなかなか再現できなかったことと、ソビエト共産党が、ルイセンコ学説に反対する者を処刑、強制収容するなどの強権措置をおこなったため、共産主義のイデオロギー(努力すれば報われる)を体現する思想のような扱いとなり、やがてDNAモデルのネオダーウィニズムの登場によって、否定されることとなった由。ニセ科学の代名詞のような言及のされ方もします。
それが、どうも最近、「エピジェネティック」ということで、生まれた後のさまざまな状況で、形質(=遺伝子の発揮する作用)が変わることがあることがわかってきたのだそうです。事後的な形質変化は、動物では初期化されて消されるものの、「植物では世代を超えて伝えられることがわかってきた」ということで、著者は、「怪物ルイセンコの執念おそるべし」と書いています(笑)。
・・・というようなことで、科学界といっても、蛇行に蛇行を重ねてきているわけで、論文の文章、写真、順序その他が極めて「品行方正」であるかどうかということと、それが真実であるかどうかとは、また別物ではないかと感じます。
小保方さんは、論文のコピペ、写真の加工、流用等、ウィキペディア世代の新人類という気がしますが、そういう若い「無頼者」?の研究者によって、やはり世紀の大発見がなされていた・・・という事態を、楽しみに待ちたいという気持ちが依然として大きくあります。
全然責任のない、門外漢の勝手な感想を書き連ねて恐縮ですが、それだけにのびのびとした?自由気ままな感想が書け、連想ができていいです。当事者だったら、間違っても書けませんから・・・。
※ 今回、論文発表前の特許申請はどうしているのか?も気になります。山中教授はiPS細胞公表前に、特許の弁護士をつけて、特許申請の処理をしてから発表したと聞きました。今回は、それはどうしたのでしょうか・・・?