理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問

小保方論文の「改竄」「捏造」認定の不合理さ、バッシングの理不尽さ

文藝春秋の裏事情を感じさせる佐藤優氏の小保方氏批判記事


 連休中に雑誌などの整理をしようと思って、古い文藝春秋などを処分している最中に、たまたま、佐藤優氏と科学ジャーナリストの緑慎也氏との対談記事が目にとまりました(20164月号)。購入当時は見落としていたようです。タイトルは「小保方晴子錬金術師である―ベストセラー手記に騙されるな」というものです。
『日記』の201648日の箇所に(p209)に佐藤氏の繰り返しての批判への困惑が書かれていますが、2人の対談は桂報告書を前提としたステレオタイプの印象です。
 
 佐藤氏自身はあまり本件経過に詳しくないままに、「ノンフィクション日記の書き方はかくあるべきなのに、小保方氏の手記はそうなっていない」「自己愛に満ちている」「印象操作が巧み」「周囲の磁場を狂わせる力がある」といった主観的批判言辞を並べるばかりです。元々は国際政治外交や神学の専門家である佐藤氏が、なぜ異分野で経過もよくわからない中でこういう批判を繰り返すのか?という違和感を感じるところですが、小保方氏の指摘どおり、文藝春秋ノンフィクション賞の選考委員だという裏事情を知れば、納得してしまう話です。そして、そういう役回りを演じているだけかと感じさせて、せっかくの佐藤氏の評価を下げるだけだと感じます。
 
■ 唯一いいことを言っていると思うのは、


「検証結果を覆そうとする本がベストセラーになっているわけだから、理研は反論すべきではないか?」


という指摘箇所です。全くその通りで、理研も若山研も公的機関なのですから、普通だったら反論コメントを出すはずですし、出すべき立場にあるはずです。マスコミにしても、取材に殺到するはずでしょう。佐藤氏は、


「小保方氏は理研に所属して、国民の税金を使っているわけだから、公務員に準じて説明責任がある。裏付けとなるメール等を明らかにすべき」


との趣旨を述べていますが、それはそのまま理研や若山研に跳ね返ってくるべき指摘でしょう。


「ノンフィクション当事者手記であれば、証拠となるメール等を書くべきだ」


とも指摘していますが、その台詞通りに、理研や若山研は質問状でも出せばいいと思います。
 しかし、それは一切せずに沈黙を保っているということに、逆に「なぜだろう?」「小保方氏の指摘に抗弁できない事情があるのではないか?」と普通は不審を感じると思いますが、「理研は反論すべきだ」で止めてしまっているところが、文藝春秋の営業的臭いを感じさせてしまいます。


 反論してしまっては、小保方氏の狙い通りになって裏付けとなる証拠が明らかにされてしまうことを(『あの日』2016年2月9日。P188参照)、理研も若山研も、そしてバッシング報道を続けたマスコミもわかっているからこそ、何も反応しないのが得策と判断している事は、容易に想像できることでしょう。

■ ただ、佐藤優氏や櫻井よし子氏らの反応をみるにつけ、彼らをして誤解させてしまっている要素について、わかりやすく解説材料を提供していくことが必要だと感じさせます。
 特に、 「科学データをなぜ出さないのか?」「なぜ再現できないのか?」という点について、本事案では、一般論では判断できない事情、背景があることを粘り強く説明していくことが必要だと思いました。
 そのように考えさせる材料としては、この佐藤氏の対談は役に立ちました。
 

■ それにしても、(前にも書きましたが)文春の質は堕ちていく一方です。現在の週刊文春だけをみれば、昔を知らない人は、週刊ポスト週刊現代と同列の週刊誌と感じるかもしれませんが、昔を知っている者からすれば、どうしてこんなに変質してしまったのか?と嘆き呆れるばかりです。
 何が文春砲だか・・。有名人の下半身スキャンダルばかりを売りにし、小保方氏の件のように煽情的な嘘八百を並べて販促材料にして、他誌とは一線を画する矜持はどこに行ったんだ?と感じます。それだけでは売り上げが足りないのか、最近は健康医療に関する記事も柱にしたりで、かつてのような硬派的記事は消えて久しいです。


 月刊誌の文藝春秋も、朝日新聞かと見紛うような記事が増えてきており、論壇誌というよりは政治運動誌のような印象さえ受けるようになってきました。昔は、(『諸君!』とともに)保守系の自他とも認める代表的論壇雑誌だったと思いますし、右も左も巻き込んで、誌上論争企画を多々組んで、読者としても刺激されるところがありました。そうやって論争をいろいろなテーマで巻き起こして楽しむというような風でした。
 その頃のことを鮮明に記憶している読者としては、現状には落差を感じるばかりです。昔の編集長だった花田紀凱氏(現『HANADA』編集長)も、文藝春秋誌の変質を嘆いていました。


 活字離れが進む世の中で、長期低落傾向が続いているの何とか食い止めたいという思惑での路線変更でしょうし、それは廃刊にしないためには仕方ないのだ、という事情はわからないでもないですが、ここまで変質してしまうと、昔からの読者は離れていきますし、文春砲という下半身暴露路線では嫌気や反感を覚える人々も増えていって、とどのつまり、立ち行かなくなるのではないかという感が強くします。